生とか死とか無とか

 

 

 

 

 

最近、老ける、老いることがとてもこわい。

バスなどに乗っていると、所謂老害が。

道を歩くと、老害が。

めちゃいる。

 

田舎だからかもしれないけど老人の数が多すぎる。なぜ。

長生きできるようになったから。

 

江戸時代の寿命は40歳くらいだったと、何かで読んだ。

それくらいでいいと思った。

 

美しくなくなった、死ぬことが遠くなった口ばかり達者な老人たち、もういらないのに、医療が進歩しちゃったから生きている。

 

うちのおじいちゃんはもう死にたいと、ぽろっとこぼしたことがある。もう90歳だ。

毎日つまらない、長い、何もすることがないと。

 

骨折をして入院していた頃の方が、色んな人と交流できて、生き生きしていた気がする。

 

 

身内だから、とても悲しいけれど、きっとそれは本心で、もういいという気持ちは痛いほどわかるので、解放してあげたくもなる。

 

死は、生からの解放でもあるから。

 

 

 

わたしはというと、仕事をしながらも本当に毎日毎日死にたくて、何もかもをぶん投げて楽園たりえる場所に走り出したいとか思っている。

 

地上に楽園はないので、必然的にそれは「死」となる。

 

 

 

死は救済ではないかもしれないけれど、生からは救済されるわけだから、れっきとした救済だ。

 

 

 

内臓が震えて、メンタルがヘラりそうなとき、わたしは薬を飲む。

さざ波が高波にならないように薬を飲んでみる。

さざ波がやがて消えて、頭の中の海が穏やかになったとき、みんなにとっての普通のちょっと下と同じくらいになれる、というかそう振る舞える。難儀だ。

 

昨日なんかはひどくて、頭の中がすごく狭くて

そこに甲高い声のネズミがきた。

叫びながらグルグル頭の中を走り回ってうるさかった。難儀だ。

 

 

 

 

そんな感じだけど、なんとか生き過ごしています。