遺書に足るかはわからない書

 

 

 

 

 

そばを食べて体がかゆかゆになってしまった。

そばアレルギーと言っても軽度だし、インスタントだし、と甘く見て食べてしまった。大変美味しかった。やはりそばは美味しかった。

 

好きなものが食べられないのはつらい。

アレルギーで死ぬのはもっとつらいだろうなあ。多分呼吸できなくなって、苦しみながら死ぬんだろな。

 

まあ多分明日も元気にニートとして目覚めるんだけど、なんだか遺書って今まで書いた事なくて、書いても無意味だと思ってて、だから書かなかったんだけど。なんとなく書きたくなった。見てくれる人が、1人でもいると実感できたからかもしれない。家族ではないけれど、わたしを分かろうとしてくれた他者が。このブログを読んでいる人は、相当やさしい人か、相当人の不幸がすきな人だろう。わたしは前者に、この遺書を送る。贈る。

 

 

 

この遺書となるかわからない遺書が、本物の最後になってしまう日、その日のわたしはどんなだろう。死にたくないなんて思うのだろうか、やっと死ねるって笑うのか。

多分笑う。成仏みたいなものだと思う。火葬されて壺につめられるけど、きっと地球に還る。わたしの意思は地球に還る。

 

後悔はない。いつだって神様は助けてくれなかったし、いつだって神様は助けてくれたんだろう。

わたしの不幸は、思いつかない幸せと、きっと均等だ。

ただ、思いつかないだけ。きっと幸せだった。不幸せな分、幸せな時もあったはず。

 

そう思えるけど、この先に進む燃料がもう無い。ずっとごまかしながら進んできたけど、もう行き止まり。ガソリンスタンドはどこか遠く。ずっと遠い。

 

 

 

生きたくても生きられないみなさま、ごめんなさい。

死にたくても死ねない人もいるのです。

命を粗末にしているのではありません。もしそうなら他人の命を奪うのすらたやすいでしょう。

自分を正当化するために、だれかを否定するのはやめませんか。それで本当に正義だと言ってもいいんですか。そんなのは優しさでも正義でもなんでもないんですよ。

 

受け入れられないなら放っておいて。

わざわざ傷つけに来ないでください。

 

 

 

 

 

話が逸れましたね。

わたしは、この行き止まりからどうやって逃げるんでしょうね。

遺書って本来何を書くんだろう。感謝とかかな。

では、

 

 

 

みなさま、ありがとうございました。

来世は望みませんのでわたしはここまで。

 

やりたいことやりたかったこと、死の前では何もかも無意味です。あまりに救済。あまりに甘美。

 

 

わたしが勝手に大事に思っている友人のみなさま、お先に失礼します。

 

わたしを観測しているあなた、見つけてくれてありがとう。読んでくれてありがとう。

 

ああ、遺書らしくなってきたところで終わります。

 

 

 

 

 

 

 

親愛なるみなさまへ

水田より